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とりとめ

この星に、はじめに降った雨の一滴は、いまをどのように在るのだろうか。

 

以前ぞっとするほど非論理的に話す人間とかかわったことがあったが、彼は漫画の読み方を理解していなかった。右から左に読むところを上から下に読んで、よくわからないと言っていたことを思い出す。そりゃこっちのセリフだ。

 

コーヒーの空き瓶は小銭入れに使っている。そしてこれが驚くほどはやくいっぱいになる。なぜか。レジの半自動化が進んだからである。処理がはやくて心的負荷がかなり軽減された。昔から、財布をひっかきまわし、硬貨をひきずりだしてみみちく支払うあの、ああ、俺はいまこの人たちを待たせているんだな、俺のためにすまない、という時間と、安易に紙幣を差し出したせいでレジ打ちの方が一枚ないし数枚ずつ指先で薄い円盤を掬い上げる動作に恐縮していたわたしには、現代はとてもよい時代なのだ。あれ、いまではコンビニと一部のお店でしか見なくなったな。

 

わたしの机の上には、日本国語大辞典の第二版第1巻と丸善エンサイクロペディアと日本大歳時記の座右版が並んでいて、たびたび引き出しては読んでいる。日本国語大辞典は全13巻+別巻構成なので残り13冊を集めなければならないが、新しく買うとなると結構な金額になる。なので安価な古本で手に入れてゆくつもりでいる。辞書(に限った話ではないが)は、使う人は紙が黒ずむまで使うが、そうでない人も多く、一度か二度開いたきりで売りに出されることもままある。状態の良いものが出回っていることが多いのだ。

 

岸本佐知子女史の『ねにもつタイプ』を読んでへらへら笑っていたら昼になった。うどんを買ってきている。茹でる。食べる。

 

ドンピシャ氏のSumoman、終わってしまったなあ。最終回でなんとなく感心したのは、主人公がラスボスを直接ぶっ飛ばさなかったところだったりする。ぶっ飛ばそうとはしたけどね。おもしろいゲームだった。あ、コメント欄に制作者からのメッセージがあって、それにも感心した。さすが。

不毛の調べ

わたしの周りには人生に対して後ろ向きな人間が多いのだが、彼らには共通点がある。勉強しないのだ。例えるならば、そう、まるでアップデートされなくなったOSのように変化しない。なので当然システムの不具合、セキュリティの穴は放置され、移りゆく時代に対応できなくなってゆく。当人たちが望んでそうなったかどうか、わたしにはわからないし正直なところどうだってよいのだけれど、ただ、彼らの多くが他者の足を引っ張ろうとしたり、自分のいる位置まで引き下げようと躍起になったりしている姿を見ているとむなしくもなるというものだろう。かといってその手の輩に向かってそれをすることをやめたまえなどと言う気は毛頭起きない。なぜなら彼らは得てしてかたくなだから。彼らはなんらかの信仰を持っている。それは失意教かもしれないし挫折教かもしれないし絶望教かもしれないが、とにかく非常に偏向した、情念と言って差し支えないほどの強烈なおもいを抱えている。既知の言葉、事や物の範囲でしか思考できないわたしたちにとって、学ばないという選択は人の魂をそんなふうに極端な世界へと放り込み、幽閉してしまうのである。

 

いつまでも同じ風景の中、いまある持ち物だけでやりくりしてゆく。そんな毎日が心地よい環境だってもちろん存在するはずだ。だが理不尽や不条理に包囲された者にとってのそれは生き地獄でしかない。覚悟がなければ通れないし、覚悟がなければ通るべきではない道なのだ。にもかかわらず、彼らは心を閉ざすことで自然とそちらへと流れていってしまう。しかし、わかっているはず。ほんの一瞬で人生を好転させるような都合のいい答えに出会える人間などそうはいないということを。たいがいは地味で地道な学習や訓練の積み重ねをくりかえして自己や世界をつくり変えてゆくということを。そしてそのために味わう苦難や、彼や彼女が自分自身となり、己の人生を獲得するために支払う労力がどれほどのものかは、そういった、いわば通過儀礼を経た者にしかわからないということを。わたしを支えているのも、試練の先に身につけたものだ。脳が沸騰するほど考えて、かけられた呪いを自らの手で解いたのだ。戦わなければ到達できない場所は確実にある。

 

ちなみにわたしは人生に対して前向きでも後ろ向きでもない。全方位型だ。

転居

昨日、友人の引っ越しを手伝った。この人物の家移りには過去2度手を貸しているので、これで3度目となる。はじめに5階にのぼり、次いで2階にくだり。ふたたび5階へとのぼった。こちらはこちらで1度手伝ってもらったことがあるのであまり強くは言えないが、転住のたびにあてにされるのは正直なところ迷惑だ。なので業者に頼めと再三告げたが、余計な金がかかると否まれ続けて当日へと至った。頭にきたので、お前は犬畜生か。いったいわたしを何だと思っているのだ。お前は犬畜生か。などと罵声をあびせたがまるで堪えない。こいつは思いのほか頑丈な男で、そのことは、俺はもう駄目だ、俺はもう死ぬ、と日常的に嘆きながら死なないでいる点でも判断できる。ちなみにこれは彼が数日前に魔女の一撃を食らったことを加味した上での判断でもある。おかげで作業中、たびたび発する悲鳴とも喘ぎともつかぬ奇声に精神を蝕まれることとなったが、人足としての機能自体は果たしていたので幻聴扱いとした。しかし、毎度毎度、荷の搬出元、搬入先である建築物のどこをどう探してもエレベーターが見つからないのは不可解である。ひょっとすると、あの男に何かを判断させるのは大変な間違いなのではないか。よって次の住処はわたしの決定に従ってもらう。河川敷に行け。

このすば観てたらこんな時間

アクアが大泣きするときの顔と声が好き。EDのティルトシフト(チルトと書くのに抵抗をおぼえるのはウィザードリィのせいか)レンズを用いたような演出も良かった。

 

さて、久しぶりの更新は実家から。PCを置いてきたのでスマホで軽く執筆しつつ、資料として持参した本(『西洋写本学』、13,500円。たけえ)を読み、事前にダウンロードしておいたアニメを観てすごしている。本といえば、帰省した日にも駅前の書店で古書を漁り、額田巌『結び』、岩井宏実『絵馬』、文學部『続國譯漢文大成 第16巻 蘇東坡詩集』の3冊を入手した。『続國譯〜』は非売品らしいがAmazonでも売られている。もちろんマケプレ。昭和初期の刊行だけあってすでにもっている『漢詩鑑賞事典』ほどやさしくはないが、わたしはいっこうにかまわん。

 

写本についての資料は他にも数冊必要になるだろう。パッと目についたものだと『中世パリの装飾写本 ー書物と読者』『ザ・コレクター 中世彩飾写本蒐集物語り』『字典かなー写本をよむ楽しみ』あたりが候補。あとは図書館司書について書かれたものも買わなければね。

フィクションの中のフィクション

実写版攻殻機動隊、海外ではあまり人がはいっていないと聞いた。日本でもそうなのだろうか。少佐の人種云々が理由のひとつとして挙げられていたようだけれど、それはわたしにはどうでもよい。個人的には、あの映画の(トレーラーしか観てないからトレーラーの)問題って、本当に単純に、純粋に画面がかっこうよくないことに尽きるんじゃないかと思っている。だってクソださじゃないですか、アクションシーン。それだけでもう観たいと思わんよ。

 

先日から短篇を書きはじめた。不足しているのは焚書、図書館、艦隊戦についての情報で、いま集めているところ。トム・クランシーの『Red Storm Rising(レッド・ストーム作戦発動)』もその一環で手に入れた。ソ連NATO。さすが、おもしろいですよ。ソヴィエト連邦(ロシア)の者たちはやはり蒸し風呂に入るのだね。樺だかなんだかの枝で体をたたく描写があった。佐藤優の本にもそんなことが書いてあったぞ。平行してA・J・クィネルの『Man on Fire(燃える男)』も読んでいる。映画『マイ・ボディガード』(こちらの原題も小説と同じくMan on Fire)の原作。ろくでもない話だけど楽しんでる。あとはウィリアム・ゴールドマンの『The Princess Bride(プリンセス・ブライド)』を読み終えた。入れ子構造の異世界ファンタジー。著者がかつて父親に読み聞かせてもらった本をふたたび入手してあらためて読んだら冗長な部分が多すぎて酷い有様だったので勝手に編集しておもしろい箇所だけ載せるぜ!ってな体で物語が進行するんだけど、それ自体つくり話だったりする。ヒロインの名前がキンポウゲ(Buttercup)で最後まで馴染まなかったが、嫌いじゃない。ちなみにこれも映画化済み。しかし、かなりチープ。絶世の美女だの超絶イケメンだのは自分で想像するにかぎる。

 

久しぶりに聴いたので。


The Mowgli's - San Francisco


The Mowgli's - I'm Good

Sumomanとドンピシャ氏

2bro.と並んで愛してやまないゲーム実況グループが三人称である。新着動画でめちゃくちゃ笑ったので貼っとくぞい。なんなんだよこのゲームは。


#1【三人称】ドンピシャはSumoman【PC】

未来予測?

電脳化によってデータだけの存在となった人類がネットワーク上で永劫の時を生きるなんて世界が実現されたとしたら、そりゃもうわたしは大喜びするだろう。停電で全滅したらもっと喜ぶが、さすがにそんなお粗末なカタストロフィはあり得ないかしらん。電力に依存しない、たとえば宇宙全体を満たす謎エネルギーを活用する技術が生み出され、管理運用や保守の不要なシステムが構築され、汲めども尽きぬ計算資源の海原を自在に往くことのできる時代が来るとして、つまりシンギュラリティが成り、オーバーテクノロジが四海を席巻し、人類が”拡張”されて人工知能との差異を超越し、たがいの区別もつかなくなった頃には、ぼくらはめいめい神となるのじゃないか。そして全能者として、パーソナルな空間で完全なる充足を、あるいは不足を享受し続けるのじゃないか。そこでは自分自身はもとより、他者も物も、空間も時間も思いのままだ。もちろん望めばありとあらゆるものを乱数的に生成できる。ありとあらゆるものが、自動で、もしくは無数の選択を経てぼくらの世界に配されるのだ。ヴァーチャルな存在として。そのことを(自己が認知する世界がそういった成り立ちで在ることを)自覚できるか否かも選択できるかもしれない。自覚できるならばそれは明晰夢のようなものとなるだろうし、無自覚であれば意識するまでもなく変容し最適化された世界を楽しむだけの話だ。許容できるストレスや外的刺激も変動するし、不都合も不条理も適度に、もしくは過少(過多)に示される。ぼくらは何ものにでもなれる。英雄にでも大悪党にでも無為の人にでも。いや、人ですらなくていい。まどマギよろしく概念としてあまねく偏在したってかまわない。何ものにもならなくたっていいだろう。リアルはいずれゲーム化する。我々は虚構と現実の境界線が消滅する様を目の当たりにすることになる。という背景がわたしの書くものの土台にあるという話。ファンタジーなんだけど。無自覚な神というとハルヒを思い浮かべる。

 

それはそうとこの映画、ようやく日本公開とあいなりましたな。ヴァイオレンス。


Hardcore Henry | Official Trailer | Own It Now on Digital HD, Blu-ray & DVD