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実写版北斗の拳を観たんですが

シンによるケンシロウの股間への一撃が印象に残りました。さすがは銃に頼る拳法家、やることがゲスい。そして、バットがどこかで見たような顔をしていました。わからんが、誰かに似ている。迫力という概念をかなぐり捨てたアクションも素晴らしかったですね。百裂拳の痛々しさ(痛そうだという意味ではない)、わたしは好きです。痛々しいといえば胸に七つの傷をつけられる場面。ケンシロウの表情にうっかり笑ってしまいましたが、あれは本当に痛そうに見えました。おげえってなった。あとは、そうだな、銃殺されてなお他者の精神と肉体を乗っ取り媒介としてメッセージを伝達するという離れ業を見せつけてくれたはた迷惑なリュウケンとか。あれがあの世界におけるリアルだって、君はそういうんだね。

 

閑話休題

 

あなたは仕事が好きですか?

わたしは好きではありません。生活のために仕方なくやっているだけです。だったら好きなことを仕事にすればいいだろうという話なのですが、好きなことを仕事にするにはまだ力が足りません。もちろんいずれは理想を実現したいと思っています。おもしろいことだけに集中できる人生。最高じゃねえか。

 

ただ、わたしはやりたいことがころころと変わるんです。何かに取り組んでいる最中であっても、他のことに興味をひかれるとそちらに浮気をしてしまう。結果として中途半端な実力しか身につけられないまま今に至っています。けれども、まだ何者でもない現時点であっても、そのことを無駄や浪費だったとは思いません。なぜなら、そうやって一つひとつ手に取って確かめてきたおかげで、自分にとっての本当におもしろいことが見えてきたからです。もし、何もやらずに燻る毎日を送っていたら……なんて考えたくもないですが、仮にそんな生き方をしていたとしたら、あらゆる可能性を自ら放棄していたとしたら、憤懣をため込んだ末に悲惨な末路をたどっていたことでしょう。

 

わたしの中に、とにかくやってみよう、という姿勢を培ったのは、ヘルマン・ヘッセの『クヌルプ』だと思います。あ、小説です。本屋の海外小説の棚に若草色の文庫が並んでいるはず。新訳版も出ていますが、わたしは高橋健二氏の訳の方が好きです。どこか神秘的で、どこか神聖なので。さて、主人公のクヌルプは漂泊者なのですが、器用で人好きがする好人物です。かといって誰に対してもそうであるわけではなく、意見の合わない人間を置き去りにして姿を消すなんてろくでもないこともします。彼は各地を転々とする中で、決まった仕事、決まった生活をする人々たちにちょっとした慰めや楽しみ、憧れをもたらします。自由な生き方をすることによって、です。しかしそんな生活ですから、やはり最後はそれに相応しい終わりを迎えます。我々の観点から言えば社会不適合者とか人生の落伍者とか失敗した失敗した失敗したとか、そういった類いの結末です。クヌルプ自身もその時になって自分の生き方を悔います。けれども、彼にある存在が語りかけます。お前はお前らしく生きたと。間違いすら正しかったのだと。わたしはね、学生の頃にこれを読んだんですよ。友人にはそのせいで人生狂ったんだなあなんて言われましたけど、読んでなかったら本当に狂っていたでしょうよ。当時のわたしはそれくらい苦しんでいた。違うな、からっぽだった。わたしはずっと、ものを考えるということができなかったんです。生まれ育った環境が、わたしに思考する力を与えなかった。考える力を持てずにいたわたしに、考えることを教えてくれたのがヘッセでした。これからの人生、どうなるかはまったくわかりません。結局なにひとつ成し得ないまま、変えられないまま終わるのかもしれない。でも、たとえそうだとしても、そんなものはなにかを諦める理由にはなりません。そういえばUVERworldも歌ってますね、全部やって確かめりゃいいだろうって。友達がさいたまスーパーアリーナの男祭りに参加したそうで、えらく興奮していました。わたしも彼らの音楽に自分と通じるものを感じています。好きですね。