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書きかけの記事をうっかり公開し、すぐさま下書きに戻す

そんな既成事実とは夢で出逢いたかった。

 

言葉をもちいた情報伝達の不確実性、不完全性は身に染みて理解している。うまくやれたためしが無い、と言ってもよい。今以て苦心することしきりだ。それであるにもかかわらずこうして書き物をしているあたり、わたしという人間の神経の図太さがうかがい知れるというものだが、開きなおるにしたって限度があるし、そこはわきまえているつもりである。文章力の向上をはかって修練を積むのもそれゆえ。たとえ寸毫も成果を得られずとも、そうしないではいられない。それがわたし。きわめて繊細な神経がわたしを突き動かしている。さて、ここにわたしが本棚から引き出してきた書籍がある。『図記号のおはなし』といって、その名の通り図記号についてあれこれと書かれている。図記号というのは、非常口に掲げられた人が駆ける様を描いた絵であるとか、駐車場のPであるとか、進入禁止の標識であるとか、Lineやメールの絵文字であるとか、そういったもののことだ。外部施設の便所を利用する際、大抵の人は性別を示すパネルに従って入り口を選ぶだろう(音声による案内もあるけれども)。あれのことだ。当然、わたしも従っている。本当だ。言葉には限界がある。英語しかわからない者に何ごとかに関する懇切丁寧な説明文を用意したところで、それが他言語であれば伝わらない。馴染みがあったとしても、意味をとるのに時間を要したり、複数の解釈に戸惑うこともある。誰もが文脈から正しく文意を把握する能力に長けているわけではなく、単語レベルですら齟齬は生じる。現にそのために取り返しのつかない事態が生じ、再発を防ぐ目的で生まれた図記号だってあるのだ。どこの誰が見てもわかる共通言語。有用な存在であることに疑いはあるまい。まちがいなくわたしの如き凡夫よりは役にたつし、だからこそ世間で頻用されている。図記号はわたしたちの日常の中に溶け込んでいる、と日常の中で意識しない程度には、図記号はわたしたちの日常の中に溶け込んでいるのである。個人的におもしろかったのがメキシコの話で、あちらでは駅名がその地域を象徴する絵に置きかえられている。そしてそれを自慢にしているのだそうだ。かわいい。日本だと駅の名前をそのままローマ字で併記しているのを目にするが、あれは言語を異にする者たちにとってはわかりづらいのだとか。長いものだとどこで区切ればよいのかわからず、区切ってあっても区切る理由がわからない。そりゃそうだ。メキシコに倣うべきではないか。かくいうわたしもそうである。わたしは言葉に頼ってものを書いているが、それは言葉が好きだからだ。文字が。文章が。書くことが好きだからだ。伝わらないこともたくさんあるけれど、好きだから書いている。意味はきっとあると、そう信じて書いている。神経の太さゆえに。そして今後も自分の言葉のとりとめのなさに愕然としつづける。神経の細さゆえに。メキシコに倣うべきではないか。

 

古い本なので事情が変わっている箇所もあるやもしれない。 尻の痛みはひいた。