雑記帳

わたしのさくぶんおきば

とりとめ2

ことばの奔流を待って、わたしは身がまえる。
前からか、後ろからか、上からか、下からか、そのどちらでもない方向からか、やってくるのを待っている。

 

どのみち、あらがいようのないものなのだから、ぼうっと突っ立っていたってかまわないのだけれど、どうせならすべてわかったうえで、きもちよくのみこまれたいじゃないか。そんな風におもって、ずっとみがまえている。

 

 

木にこころが在るとしたら、それはどのようなものであろうか。

なにかわたしたちではわからないことばで、わからないことをみしみしと考えているのだろうか。

遺伝子にきざまれた、なにがしかのきまりを持ったことばを、きけるものならば、いつかきいてみたい。

 

あるいは。

うまれかわりを信じるならば、もとは人だったものが木となって、むかしつかっていたことばをろうすることだってあるのかもしれない。

そうだとしたら、人が人から木となるのだとしたら、かれは、かのじょは、己の一生をどうおもうのだろうか。

 

 

三世の海をかけぬけて、ぼくは最果ての地へとやってきた。崖の先には見渡す限りの空。ほかにあるのは、ぼくと、ぼくが立つ地面と、すこしの草木と、ぼくの友だちであるちいさな船だけ。船は船だからもちろんぼくみたいには口をきけないのだけれど、でも心はちゃんとあって、ものもきちんと考えている。だから、自分のからだのどこかが悪いときは、軋むような音を出してぼくに教えてくれるし、危険な航路は嫌がって通ろうとしない。この船はじいちゃんがぼくにくれたものだ。じいちゃんはぼくにいろんなことを教えてくれた。旅のしかたも、船とのつきあいかたも、死の遠ざけかたも。ぼくはいま、この景色を目にしながら、じいちゃんにありがとうを言う。すてきな船をありがとう。この旅をあきらめさせないでくれてありがとう。ぼくのいのちに価値を与えてくれてありがとう。ぼくはここまで来たよ。ぼくは、ここまで来たんだよ。