雑記帳

わたしのさくぶんおきば

掌篇 ♯7 『車輪の城と典籍の姫』

 浮遊島から落ちた水が、巨大な柱となって湖面のいたるところに突き立っている。厖大な量の天水と湖水とが、物音ひとつ、飛沫ひとつたてず静かに混じりあうさまは、異様とも偉容ともつかない。

 

 わたしは水辺に<図書館>を停めると、久方ぶりの大地を堪能した。

 土を蹴り、思うさまにじる。小気味よい音が耳をくすぐり、覚えず笑みがこぼれた。かれこれ二十日間はこもっていたのだ。無理からぬことだろう。

 

 万巻の書をかこう日々は果たして素晴らしいもので、わたしは底の無い沼に頭からつっこむようにそれに耽溺した。猫につられて窓の外に目を向けなかったら、今この瞬間も、ぶ厚い紙束にかじりついていたにちがいない。

 

 間違いなく大枚をはたいて手に入れた<図書館>のおかげだった。自動走行機能を有しているから、眠っていたって目的地に着く。操縦の必要がないのである。現代魔術の粋が、偏執とものぐさの混合物たるわたしの為だけに尽くされたわけだ。対価こそ支払ったものの、若干の呵責を感じなくもない。乙女心とは複雑なものである。

 

 雄大なる大自然に親しむうち、ふと甕の窮状を思い出したわたしは、屋内から桶をひっぱりだし、水際へとむかった。ややあってたどり着いたなり、はっと息をのむ。

 

 水面下には人工物らしき円柱や角柱が乱立していた。そのいずれもが湖と空とを結ぶ水塔に匹敵するほどに長大で、ちがった点があるとすれば、それがおそらくは切れ目のない一つの岩から削りだされたであろうことと、全面に奇妙な文様がほどこされていることであった。

 

 水の透明度が高いせいで、柱の上部ははっきりと窺える。しかし降るほどに不鮮明となって、やがて深淵に呑まれた。おかげで全体像が掴めない。得体がしれなかった。これらはいったいいつ、何の為につくられたものなのだろう。

 

 まったく、この世界の韜晦趣味には辟易するばかりだ。

 すでに知られた事象であれば、大抵は手持ちの蔵書のいずれかに記述がある。時間をかけることで見つけ出せるだろう。しかし、目の前のこれが例外であった場合、話は変わってくる。わたしは自身の胸のうちで嫌気と好奇心が絡み合ってうずくのを感じた。

 

 嘆息。須臾の低回を経て、自分の心が元あったところへ帰ってきたのに気がついた。そう、さしあたって必要なのは渇きを癒す水なのである。

 わたしはしゃがみ込むと、桶に掬ってにおいをかぎ、指にかけて舌へとのせた。

 長く旅をしていれば、しばしば毒性を持つ食物にぶちあたることがある。苦い経験はわたしに慎重さをもたらした。

 食べるにせよ飲むにせよ、はじめはとにかく少量にするのがよい。

 場合によっては小指の爪の先程度のかけらでも命にかかわるから、学者によって安全の確認されたものでないかぎり極力口にしないのが賢明だろう。

 ただし、河川や湖沼の水についてはわからないことの方が多い。人の住まない地域だと結局は自分の身体で確かめることになる。

 

 数分を経たが、何の症状も現れなかった。もちろんまだ安心はできないが、背に腹は代えられない。わたしはままよと喉を潤し、次いで桶を満たした。

 

 湖と<図書館>を幾度となく往復した後、わたしは住処に腰を落ち着け、さっき見たものについて調べることにした。

 とはいえ目的の書物がどこに眠っているのか、あるいはそもそも眠っていないのか、皆目見当がつかない。常から読む方にばかり注力しているせいで、目録の製作が進んでいないのだ。

 次の街では司書を雇おう。到着までに待遇を考えておかなければ。

 

 立ち並ぶ書架と対峙すると、擦り切れて書名の判読すらままならない背表紙が目に留まった。手に取って確かめる。中の紙もだいぶ傷んでいた。
 補修が必要だ。あるいは司書のついでに写字生も雇って、写本をつくってしまうか。紙も道具も揃っているから不都合はないだろう。

 

 と、そこまで考えて自嘲する。不都合ならあった。わたし自身に。

 なにせ数か月ぶりに人の海に漕ぎだそうというのである。伸び放題でぼさぼさの髪は目を引くし、着古した服だってとても見られたものではない。お作りにいたっては、一度手引書を読みとばしたきりでうろおぼえときている。紅をさすだけで苦心惨憺する体たらくなのだ。口下手なのも相まって胡散くさい事この上ない。これでは来る人も来なくなる。どうにかしなければ。

 

 窓際の猫が陽光を毛布に大あくびをした。おまえの名前もいずれつけなきゃね。

 わたしは<図書館>に出発を命じ、別れを告げんと硝子のむこうの水の樹海に目を向けた。

 

 世界の秘密のひとかけら、それを内包するかのような不可思議な景色。

 もしもまだ、誰にも解き明かされていない謎があるのならば、わたしはきっと、ここに戻ってくるだろう。

 この世のすべてを知ることなんて出来はしない。けれどもそれは、知らないことを知らずに済ませる理由にだってならないのだ。

 

 地を駆る車輪の、心地よい律動が部屋を満たしていた。わたしは手元の本を開くと、ふたたびことばの奔流へと還っていった。